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うどん小話

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うどん小話 その百九十三 中華そばの謎(パート2)

中華そばが日本で食べられるようになったのは、明治に入ってからのことです。もっとも日本には古来より、ソーメン・うどん・ソバなどがあり、麺文化が発達していました。中国風の麺がなくとも、不自由はなかったと思います。

それと、中華めんの製造に必要な「かん水」が、日本には存在していなかったことが大きな原因の一つであったかも知れません。「かん水」が日本で販売されるようになったのは大正末期のことで、それまでは中国人が多く住む横浜(中華街)などで扱われていたのみでした。その後、日本人の間でも中華めんが好まれるようになると、「かん水」を売る業者が現われ始めました。

そこで、このページのテーマである中華めんをなぜ「そば」と表現したのかを考察してみますと、関東と関西の麺文化の違いが見えてきます(小話百八十四~百八十八、フォッサ・マグナ参照)。古来より関東の麺と言えば"ソバ"です。関東に位置する横浜(中華街)を中心に広がっていきましたから、中華の"麺"すなわち中華の"そば"となったような気がします。

これがもし関西の神戸(南京街)あたりから広がっていたのなら「中華うどん」か「支那うどん」になっていたかも知れません。九州に行きますと中華めんを"焼きソバ風"にしたものを「皿うどん」と言っていますし、チャンポンめんのことを「支那うどん」と呼んでいたこともわかっています。また「西南の役」の頃、中華めんのことを「うどん」と言っていたことも記録に残っています。これらの事がなによりの証左ではないでしょうか。

余談になりますが、ラーメンの語源は拉麺(ラーミェン)・柳麺(ラオミェン)から来ているそうです。このラーメンの呼び方が一般化したのは比較的最近のことで、1958年(昭和33年)に日清食品から売り出された「チキン・ラーメン」からだと言われています。

中華そばの謎に「フォッサ・マグナ」がかかわっていたことに私自身もビックリしています。

これが日本の食文化の面白いところでしょ・・・・。

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